宮古島探訪の最終回です。

喜寿に向かって 44
 宮古島探訪の最終回です。長い間有難うございました!

病になって大きく変わってきてるな、モノの考え方や心の置き場所が・・・、と最近、つくづく思う。今、日々にしている変化の1.2、難しく一言でいえば、小さな生物の命への畏敬と、先祖への感謝。例えば、僕の電動車いすの前をダンゴムシが通ろうとする、以前はきっと気にしないで歩いていただろう、しかし、今、やっこさんを踏みつけないように注意して通ろうとする。間もなく発生してくるある昆虫、世界で一番嫌いなもの、見つけたら焼き殺していた、しかし、この弱った僕が、あの、普段は大人しき生命体をそんな無残に扱うことが出来うるだろうか。この昆虫はあるものとの共生で成り立ってるようだ、その腹部から共生物を見たときの異様な光景に吐き気を催してから僕の野獣性が起きてしまったのだが、この夏からは変化しそうな気がします。生物、まさに生き物である、植物も大範疇ではそうなのだろうが、動物は、動きが明確だから生きていることが、即座にはっきりと判る、コイツがここに存在し、ここで命の営みをしているためには、コイツの今を生み出すために、いかほどの時空が働き、遺伝子の受け継ぎはどのくらい前から続いてきたのだろう、考えるだけで畏敬、そのものです。


先祖への感謝・・・。己の今を存在づける先祖への畏敬と感謝、これも、これまでの健常者時代と違って、深く、広く、なってきた。
今朝は実家の両親、祖父母が眠っています浄土宗法然寺の墓石をよく見てきた。ただ漫然とたまに墓参りはしているが、これからは祥月命日を明確に意識した墓参に切り替えようと思ったからである。まず、父母、祖母、この三人は直接この世で僕を面倒見てくれた方々、そして、僕が生まれる1年2カ月前、父のアジア太平洋戦争帰還を確認してから安堵して常世に旅立った祖父、さらに僕が逢ったことはなく、しかし、父や祖母から話には聞いていたビルマ・インパール作戦で戦死した早稲田・学徒出陣叔父、昭和の初め、わずか19歳で夭折した父の妹、この6名の祥月命日を記録し、スマホのスケジュール管理に入れた。
 昨日の朝は、そのあと、ルーティーンの鯨公園ヨガ柔軟体操。途中、寺の住職が通りかかる。この方、県南部から宗門の人事で住職になられた。もう30年近くは経つのかなあ。常時、和顔、温和な表情はこの方の代名詞、娘さんが優秀で薬学部に入ったのは伺っていたが、大学院をでて今はもう調剤薬局にお勤めされているとか。そして、妹さんは国立の医学部に入りドクターへの道のりを歩み始めたそうだ。
この住職様と僕の違いは何なのだろう、ふと思った。少し解った。他人への愛の深さはさほど違いはなさそう、しかし、差し向ける愛の対象へ示す愛の表現法やインパクト、動機形成への影響力などかなあ。反省しても始まらん。僕は今、我が身の運を切り開くだけだ。

 戦争から帰って、ただ黙々と奥久慈の山の中で教師を続けた父、深い愛の心は持っていても、僕や兄、息子に対しての愛情表現は下手であったろう、というか教育現場の数多の児童生徒への眼と心配りに追われ、余裕が無かったであろう。そんな父の命をかけた戦乱激化の中の闘いの現場を探しに宮古島を旅してきた。行かなければ判らなかったことが山ほどあった。行って良かった、つくづく思う。
 どこまでも碧い海、透き通るサンゴ礁の海、宮古ブルーと呼ばれる、一種独特な青い色、しかし、それは毎日あるものではない。雨の日や雲りの日はさほど美しい海ではない。

日本でも北国がそう、北半球のオランダやスエーデンでは、陰鬱な冬が長いから、明るい陽光の春の到来がとても新鮮で待ち遠しいらしい。宮古島も曇天や激しい台風があるから宮古ブルーが一段と輝くのかも知れない。
戦乱の中、500日を過ごした父、海の色に心を動かされることなどありうるはずもない、しかし、宮古島に棲む人々の弛まぬ愛には終始、感謝していたことが自伝からわかる。
さて翻って僕自身、2017年早春の兄との初の宮古島行きは、芝居絡みが生んだ父探しの旅、そして、2019年1月からのそれは人の愛も関与するかも知らない。そのキッカケはなんと19歳の可憐な少女だった・・・。
とりあえず今回で、一旦、父と宮古島の旅は閉じます。僕の大好きな歌、作詞高畠じゅん子さん、作曲中川博之さん、「愛をありがとう」に乗せて、最終回の動画を作りました。

あ、地元の民謡、「豊年の歌」忘れちゃいけない、この素晴らしい曲も使わせて戴きました。
ここですよ。
https://youtu.be/7gbVNZZ5D4c


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