久々に書きましたのでこちらにもアップさせていただきます。
宮古島の方々。おはようございます。
いよいよマンゴーが出荷期で、多忙な方々が増えますね。
観光の方も徐々に増えてきますね。
頑張って下さい。
僕はお蔭で順調に奇跡的な回復を遂げています。
もしかしたら、ですが、5年生存率8%のすい臓がんを越える5%の特発性間質性肺炎。僕はその5%を目指していますが、2023年夏まで生き延びられたら、その極めて幸運な一員になれます。
父は70で10時間のすい臓がん大手術、見事に8%の仲間入りを果たし、80まで生きとおしちゃったのです。
徳之島沖撃沈を泳ぎ切り、宮古島早期移動で沖縄戦を避け、まさに奇跡の命拾いを連続させた父。その遺伝子を僕も受け継いでいる、
頑張らなくちゃ!そう決意する自分が居ます。
喜寿に向かって その39
自衛隊建設現場で御嶽を訪ねた!
僕はもともと宇宙人が早く地球に顔を見せてくれないかなあ、と思っていた。訳の一つには宇宙人に対峙するため、地球の全国家全民族が一丸にならざるを得ず、結果、地上の戦いや対立が消えるからである。コロナ新型ウイルスで果たして、どれだけ世界の結束が高まったかはまるで知らない、しかし、マスコミの話題はコロナ一色で東シナ海の尖閣列島ニュースは音沙汰ない。今のところ、これまでは日本と中国との間に人が死ぬほどの戦闘対立が無いのが嬉しい、領土意識が強い中国権力構造の強硬さには辟易するが、日本の政府・防衛当局の反応も過剰すぎるかな、そうも思う。
アジア太平洋戦争で連合軍に対応するため父もいた旧陸軍が上陸した宮古島、宮古島分屯基地のHPによれば、昭和19年、陸軍28000人、海軍2000人の三万人の兵士で司令部が存在し、終戦後、昭和48年、日米安保条約の下、南西諸島対応のために航空自衛隊分屯基地が発足した、とある。先にアップした上野のお面踊りの最後の頃に映っています基地です。
そこへ加えて、政府・防衛省は尖閣対策に陸上自衛隊も常駐させようと3年ほど前から計画し、昨年3月末に宮古島駐屯地として発足させた。隊員800人ほど。
僕が一回目に宮古島を訪ねた時、千代田カントリークラブを目指して父の旧陸軍部隊跡を探索したが、まさにその千代田カントリーの広大な敷地を国は買収していた、そして、二回目に島を訪問した昨年1月末、春の基地発足を目指して急ピッチで工事が進められていた時期。
細かい自衛隊事情など知る由もない僕は、自叙伝に書いていた、墓やこんもりした穴、それは何処なのか、もしかして千代田カントリーの敷地内にあるウタキ(御嶽)の森なのではなかろうか、だったら見学させてもらいたい、ダメモトで那覇の沖縄防衛局に何度か電話でお願いしていた。そしたら、なんと、OKサインがでたのである、嬉しかった!
僕は非武装中立、軍事否定、絶対平和主義、良心的徴兵拒否者ですから、基本的には自衛隊の拡充拡大には反対であります、しかし、既成事実として存在し、運営されている防衛当局、自衛隊員に対する個人的対立感情は持ち合わせていません、こちらの実体験に基づく内面の感情慰撫や疑問解明のための協力を惜しまないで、素直に個人の願望・要望を叶えてくれた沖縄防衛当局に感謝しています、そこに仮にどんな意図があるにせよ。
僕一人のために那覇から来てくれた中堅の係官N氏は、自分だけでは案内不能と判断、地元千代田地区の区長を連れて待っていてくれました。宿舎工事中で、泥まみれ、埃まみれの中の御嶽の森見学でした、この動画は、そういう僕の事情と背景の中で実現した一コマの映像と写真です。ご笑覧頂けたら幸いです。
さて余談ですが、晩酌で、きちんと熱燗1合、お祝い事なら二合チョイ、絶対に度を越して乱れた酒飲みを見たことない父、しかし、その彼に人生でただの一回、大失敗の深酒があったというのです、信じられないのですが。その話は確か、父の母、つまり祖母に聞いた気がする。古い話です、昭和の初め、世界はロシア革命が終わり、ソビエト連邦が誕生、アムステルダムオリンピックが開かれるという時代、日本は昭和天皇が即位し、全国中学校野球大会(今の高校野球です)が初めてラジオ中継された頃です、旧制中学を出て代用教員として金砂尋常小学校に勤め始めた頃、学校で歓送迎会かなんか酒が入る打ち上げがあったのしょうか、父が酒に酔い、泥まみれの自転車で帰宅したのだそうです。それを見た父の父、つまり祖父(僕の生まれる2年前に死去した伝説の御岩神社信奉者)に手ひどく叱られた。それ以来、父の悪酔いはピタっと影を潜めた。父母に幾度も数え切れないほど怒られても、深酒の失敗を繰り返してきた僕には、全く耳の痛いエピソードではある。
さてその父が自伝で、宮古島で、米軍の機銃攻撃を避け、御嶽か墓に逃げ込む様子を書いた箇所が、なかなか面白い。「部隊でもたまには酒盛りをする。酒はサトウキビでつくったアワモリという強い酒である」「酒盛りの最中に敵機が滑走路にめちゃくちゃ爆弾を落としていく。(中略)臆病な自分はそんな時は、(同席の仲間にだろう、・僕の推測)爆弾を落とせるなら落としてみろ!と啖呵を切ったことも、今思うと滑稽な話ではある、泡盛で気が大きくなったのである」。
動画はここをクリックしてください!
父が常世に旅立って30年経つ。しかし、僕の中では未だに、優しくはなったがちょっと怖い、少し取っつきにくい親父である。入院や長い自宅療養生活の中で、墓にきたり手を合わせることも儘ならなかったが、数日前からは雨で無ければ毎朝、眠っています浄土宗法然寺の門前で帽子をとって手を合わせています。今日も一日、力を下さい!と頼みながら・・・。