宮古島・父の痕跡を訪ねて「ここに部隊あり?!
昭和19年6月29日朝、徳之島沖にて米軍潜水艦から放たれた魚雷が命中、僅か1分半もしないうちに富山丸は沈んだ。今も、徳之島亀徳沖海域に3700人の御霊が眠っています。僕の父は小学生から毎夏通っていた久慈川水場での古式泳法水府流のお蔭と、御岩神社信仰そして、先祖への深い敬慕の念で、火の海を奄美大島に泳ぎ切って九死に一生を得た。奄美から沖縄本島を経て半月ちょっとで、宮古島にたどり着いている。父が唯一書いた自叙伝「夏山のしづく」によれば、「宮古島の平良港に着いたのは7月16日である」と書かれている。
自伝によれば実は父らの部隊の行先は沖縄伊江島だったという。自伝のままに書き写すと、「球第15393部隊129野戦飛行場設定隊、(中略)行先は沖縄伊江島で、その島の飛行場設定に当たる部隊だった。途中無事輸送が完全にいけば伊江島上陸、そして今思えば全員玉砕は免れなかった」。
宮古島も米軍の攻撃は激しく展開されていた。昭和19年10月10日の宮古島大空襲を皮切りに、平良の街が壊滅する事態になっている。しかし、父は爆撃をかくぐって生き延びていた。
自伝の中に「つんま」という耳慣れない言葉が出てくる。つんまとは何か、宮古島のいずれかの場所の地名なのか、上等兵に昇格して移動したという「つんま部隊」その場所を特定したいなあ、とホテル1階の大きなレストランで、朝食を戴いているときに兄と話した。
フロントの女性に頼んで調べておいて頂いたら、食事が済むころになり解った。つんま、は積間と書き、ゴルフ場の辺りだという。早速、レンタカーを飛ばした・・・
千代田カントリーという名のゴルフ場のある場所がツンマ、積間だった。一見して戦争以前からあると視認される堅固な石の門扉や塀に囲まれたエリアがあった。そしてその裏にある民家の老人、80は越していそうだ、ぼそぼそと語ってくれた。「あったよ、そこに、兵隊さんの部隊が。子供だったわし、兵隊さんと話したことある、何話したかは古いことで忘れた」。
もしかしたら、老人が話した相手は父だったかも知れない。父は小学校教師、子供が大好きだったから。
今から、72年前、父はこの場所、ここで、戦争と闘いながら、生きていた、今、僕らは、その同じ場所にいる!身の毛が身震いするのを禁じえなかった。
ここです!