反響あり宮古テレビ役員氏のエピソード
ご無沙汰しています。
台風10号、大きな被災にならずに良かったですね。でもきっと、小さな被災はあちこちで起きてるものと思います。
無理せずに復旧に頑張ってくださいね。
8月3日の誕生日を記念して出版した二冊目の自著「ルート2からの人生を生きる」にも収録した「宮古への旅 父を訪ねて」に引用抜粋した、宮古テレビ役員氏のエピソード「生き残った特攻隊員」が僕を看護してくれています訪問看護師さんの眼に大きく止まりました。
今日は僕のフェイスブックや、ブログにはこの記事を書きました。
こちらにも、コピペさせて戴きます。
喜寿に向かって 106
嬉しい読後感
「結構借りて読みたいとおっしゃる方がいらしてますよ」と常陸太田市立図書館の職員さん。嬉しい話です、僕が書いた√2の人生を生きるが市民に読まれていると聞きますとなんか嬉しくなりますね。
嬉しいといえば昨日は訪問入浴の大宮ナースステーション看護師のSさんから良い話を聞きました。全部読破していただいて彼女の一番印象的な部分は、宮古島で特攻隊の兵士が戦後もずっと生き延びた話のところだそうです。
本では僕、「宮古への旅 父を訪ねて」の中で宮古テレビ報道部長の話を引用抜粋しています。
「
「宮古島市平良の市街地から少し離れた丘に旧日本軍戦没者の慰霊碑が幾つかある。その中に神風特攻隊第三龍虎隊の慰霊碑がある。しかし宮古から神風特攻隊が出撃したことはあまり知られていない。それもそのはず、実はこの特攻隊、本拠地は台湾の虎尾だ。
昭和20年7月28日早朝、神風特攻隊第三龍虎隊8機は台湾・虎尾を出発。新竹、宜蘭を経由して石垣で給油し宮古に降り立った。この特攻隊、何故(なぜ)石垣から出撃せず、わざわざ宮古に降り立ったのか。それには訳があった。彼らの乗った特攻機は練習用の布張りの複葉機、通称「赤とんぼ」。粗末な練習機に250キロ爆弾を載せて長距離飛行するのは厳しく、最短距離から出撃する必要があった。しかも、作戦は月夜に限られた。
宮古到着後夜11時。2度目の別盃(べっぱい)式を終えたうら若き隊員たちは、雲一つ無い月明かりの中、沖縄近海に群がる連合艦隊に向け飛び立った…。話はそこで終わるはずだった。が、後がある。離陸直前、1機の飛行機のタイヤがパンク。出撃は中止された。他の7機はそのまま飛び立ったが、2機がエンジン不調を理由に戻ってきた。そのうちの1機は滑走路脇の畑に不時着大破。隊員は重傷を負った。整備兵たちは不時着した飛行機の車輪を、パンクして飛ばなかった飛行機に移した。一旦、出撃を免れたはずのパンクした飛行機の隊員は、再び出撃する羽目になった。翌日、その隊員はベッドに横たわる不時着の隊員に「臆病(おくびょう)者。恨んでやる」と言い残し、月夜の闇に消えた。
不時着の特攻兵は生還し、80歳余で最近亡くなった。彼は生前、宮古島を訪れることはなかった。彼は自宅の庭に慰霊碑を建て、7人の神風を供養し続けた。
(砂川健次、宮古テレビ取締役報道部長)
戦争とは、実に、過酷で、非情なものである・・・。そして、生死の別れ道、運命の岐路は、神のみぞ、知る・・・。
僕が書いたこの記事にSさんは祖父を思い出していたという。実は彼女の祖父も生き残り特攻隊員だったという。宮古島のこの生き残った隊員と同じような事情で生き残ったのか否かは判らない、しかし、Sさんの知る祖父は戦争や特攻隊のことは一切口にせず、ただ静かに、穏やかに、無口に戦後を暮らしていたという。そして、彼女の見る時折の横顔、その眼差しには、深い、影と、大きな悲しみが潜んでいた、そう彼女は語っていました。
戦争はどんなことがあっても、絶対にしてはいけないことだと、僕は思います。
さて、今日8日は、9月の茨城東病院定期検診日です。いくつかの検査が待っていますから今日は早めに出発します。そうそう、奄美旅のための第一回目の旅行許可申請をしておかないとなりませんね。